Ethereum開発者は、将来の量子コンピューターによる署名偽造に備え、バリデーター用デポジットコントラクトを耐量子暗号へ移行できる構造に改める案を提示した。
今回の提案はBLS署名を直ちに廃止するものではない。複数の署名方式を受け入れられる入口を先に整備し、十分な検証を経た後に従来方式の新規受付を停止できるようにする、長期移行の第一歩である。
Ethereumの耐量子ステーキング提案とは
CoinDeskが2026年8月26日に報じたのは、Ethereumのバリデーター登録に使われるデポジットコントラクトを、将来の耐量子署名に対応できる形へ作り直す提案だ。Ethereum EIPsリポジトリでは「Post-quantum-ready deposit contract」としてドラフトのプルリクエストが公開されている。
現行のデポジット形式は、バリデーターの公開鍵を48バイト、署名を96バイトのBLS形式として扱う。サイズと方式が固定されているため、別の暗号方式を採用するには、単に新しい署名アルゴリズムを決めるだけでは足りない。登録データの形式、コントラクト、実行レイヤーからコンセンサスレイヤーへ情報を渡す仕組みも更新する必要がある。
ドラフト案は、公開鍵や認証情報を可変長で扱い、各デポジットへ暗号方式を識別するタグを付ける。現在のBLS方式にはスキーム番号0を割り当て、将来の方式を別番号で追加できる設計だ。
重要なのは、この提案がまだEIPとして確定していない点である。GitHub上では当初プレースホルダー番号が使われ、レビューでEIP-8394という番号が提案された段階にある。仕様、採用時期、対応クライアントは今後変更される可能性がある。
なぜBLS署名は量子攻撃への備えが必要なのか
Ethereumのコンセンサスレイヤーでは、バリデーターがブロック提案やアテステーションにBLS署名を使用する。BLSの利点は、多数の署名を集約して効率的に検証できることだ。膨大な数のバリデーターが参加するEthereumにとって、この集約性は通信量と検証負荷を抑える重要な特性である。
一方、BLSは楕円曲線暗号を基盤としている。十分に強力な量子コンピューターでショアのアルゴリズムを実行できるようになれば、公開鍵から秘密鍵を導出し、正規バリデーターになりすまして署名を作成できる可能性がある。
Google Quantum AIの研究は、Ethereumについて、一般アカウントのECDSA、スマートコントラクトの管理鍵、バリデーターのBLS署名、データ可用性に使われるKZGコミットメントなど、複数の攻撃経路を整理している。つまり、量子対策はウォレットだけの問題ではない。LidoやRocket Poolのようなリキッドステーキング、Obolの分散型バリデーター技術、EigenLayerを利用するリステーキングも、基盤となるEthereumコンセンサスの安全性と無関係ではない。
ただし、Ethereum公式サイトは、現時点でEthereumの暗号を破れる量子コンピューターは存在せず、利用者が直ちに資産を移動する必要はないと説明している。今回の動きは発生中の攻撃への緊急対応ではなく、移行に長期間を要することを前提とした準備である。
新デポジットコントラクトの仕組み
提案の中心は「署名方式の俊敏性」をデポジット段階へ持ち込むことだ。新しいコントラクトでは、暗号方式を示すスキーム番号、可変長の公開鍵、認証情報、入金額などを登録できる構造が検討されている。
導入当初は、従来のBLSデポジットを有効なまま維持し、新方式を並行して追加できる。耐量子方式のクライアント実装、相互運用性、署名検証、負荷、安全性が確認された後には、不可逆的な切り替え機能によって新規BLSデポジットの受付を停止する構想だ。
ここで「受付停止」と「既存バリデーターの無効化」は区別する必要がある。ドラフトが想定するのは、まず新規登録の入口を切り替えることだ。既存のBLSバリデーターをどのように耐量子鍵へ移行させるか、コンセンサスレイヤーが新署名をどう検証するかについては、別のプロトコル変更が必要になる。
また、この案はEIP-6110によって整備された、バリデーターデポジットを実行レイヤーのブロック内で扱う仕組みを踏まえている。出金やバリデーター変更でも利用されるExecution Requests系の枠組みに寄せることで、旧来のデポジット処理に依存し続けない構成を目指している。
leanXMSSとleanVMが担う役割
Ethereum公式の耐量子ロードマップでは、BLSの後継候補としてleanXMSSが示されている。leanXMSSはハッシュ関数を基盤とする署名方式で、楕円曲線暗号とは異なる安全性の前提を持つ。
しかし、BLSをleanXMSSへ単純に置き換えることはできない。BLSには多数の署名を小さくまとめられる強みがあるのに対し、ハッシュベース署名はデータが大きくなりやすい。バリデーターが一斉に大きな署名を送れば、Ethereumの帯域、ブロック処理、ノード運用コストへ影響する。
そこで研究されているのがleanVMだ。これは耐量子署名をゼロ知識証明によって集約し、コンセンサスレイヤーで効率的に検証するための最小構成のzkVMである。新デポジットコントラクトが「耐量子鍵を登録できる入口」だとすれば、leanXMSSは署名方式、leanVMは大量の署名を現実的に検証するための集約基盤という関係になる。
Ethereum Foundationは段階的なマイルストーンを公開しており、耐量子公開鍵の登録、署名検証機能、耐量子アテステーション、データ可用性までを順次移行する方針を示している。コアとなる耐量子インフラの整備目標はおおむね2029年とされるが、公式にも確約された日程ではなく、研究や実装状況により変更され得る計画として記載されている。
DeFiとステーキング利用者への影響
ETHをLidoへ預けてstETHを保有している人や、Rocket PoolでrETHを利用している人が、今回の報道だけを理由にポジションを解消する必要はない。提案は初期ドラフトであり、現行BLS署名への攻撃が確認されたわけでもない。
一方、プロトコル運営者やノード事業者には長期的な対応が必要になる。Lido、Rocket Pool、Coinbaseのように多数のバリデーターを管理するサービスは、鍵生成、デポジットデータ作成、署名、スラッシング対策、監視ツールを新方式へ対応させなければならない。Obolの分散型バリデーターやSSV Networkのように、署名処理を複数ノードへ分散する仕組みも、採用される耐量子方式との互換性検証が必要になる可能性がある。
EigenLayerなどのリステーキングでは、Ethereumバリデーター鍵に加えて、AVS固有の署名方式や管理鍵も確認対象となる。Ethereum本体が耐量子化されても、周辺のブリッジ、オラクル、マルチシグ、アップグレード管理者が量子脆弱な鍵へ依存したままなら、DeFi全体のリスクが同時に解消されるわけではない。
利用者は「耐量子対応」をうたう非公式ウォレットや鍵移行サービスへ秘密鍵を入力してはならない。正規のクライアント、Ethereum Foundation、利用中のステーキングプロトコルから正式な移行手順が公開されるまでは、通常のフィッシング対策とシードフレーズの保護を優先すべきだ。
今後確認すべきポイント
第一に、ドラフトが正式なEIP番号を取得し、EIPsリポジトリへ取り込まれるかを確認したい。GitHubのプルリクエストが存在することと、Ethereumのネットワークアップグレードへ採用されることは同義ではない。
第二に、登録できる耐量子署名方式と、その署名を検証するコンセンサス仕様が必要になる。デポジットコントラクトだけを更新しても、Lighthouse、Teku、Prysm、Nimbus、Lodestarなどのコンセンサスクライアントが新方式を検証できなければ、バリデーターは稼働できない。
第三に、既存バリデーターの鍵移行手順である。新規BLSデポジットを停止する機能は入口を閉じる仕組みにすぎず、稼働中のBLSバリデーターを安全かつ段階的に移行する仕様は別途必要だ。停止時期、移行猶予、鍵紛失時の扱い、リキッドステーキング事業者への影響が重要な論点になる。
第四に、ウォレット側ではEIP-8141などを通じた署名方式の変更可能性が議論されている。MetaMaskやSafeを含むアカウント側の対策と、バリデーター側の対策は別レイヤーで進むため、「Ethereumが耐量子化された」という一言で一括りにせず、どの領域が実装済みなのかを確認する必要がある。
まとめ
Ethereumの新提案は、量子攻撃を今すぐ無効化する完成済みの防御策ではない。固定長のBLS鍵しか扱えない現行デポジット形式を改め、複数の署名方式を登録し、将来的に新規BLSデポジットを停止できる基盤を用意するものだ。
実際の耐量子化には、leanXMSSなどの署名方式、leanVMによる集約、新旧バリデーターの移行、各コンセンサスクライアントの対応が必要になる。LidoやRocket Poolなどの利用者が現時点で特別な操作を行う必要はないが、公式EIP、Ethereumの耐量子ロードマップ、利用中プロトコルの告知を継続的に確認することが重要である。





